今朝見た夢の記憶も消えていった・・・アクセス権限がないのだろうか?

つい先ほど目覚める直前に見たと思われる夢。身近な知人が2人ほど登場し、何かを話し合っていた気がする。その知人が誰だったのか、すでに思い出せなくなっている。何か重要な話題だったかと聞かれると・・・まあ、どうでも良いものだったような気もしてくる。

今となっては全くあいまいだ。先日の夢の経験と同じようなことを繰り返している。目覚まし時計のアラームが鳴る前だったことは確かだ。目が覚めた時に時計を見て、午前7時半過ぎだったことははっきり記憶しているからだ。

夢の中のことで確かなことは、
(1)そこは見たことのない場面だったが、臨場感は現実と変わらず、その時、私自身は夢の中だとは認識していなかったこと、
(2)夢の途中か直後に、そこで話し合われた話題を2~3のキーワードに置き換えて文字としてイメージし、「今日こそは絶対に忘れないぞ!」と私は心に誓ったこと
である。

そのイメージは、目覚めた直後の数分間は確かに思い出せていた、という感じが残っている。でも、朝食時には、すべてのイメージがグレーに塗りつぶされて思い出せなくなっていた。グレーの背後に夢の場面があるという確信は今でも持っているのだが。

要するに、"目覚めている自分"と"夢の中の自分"では、持っている記憶能力が明らかに違う。でも、感覚は相互共有している。"目覚めている自分"には、"夢の中の自分"の記憶領域へのアクセス権限がないのだろうか。それは禁じられている訳ではなく、技能試験をまだパスできていないとか、そんなことであるような気がする。我々は、この地球システムのごく一部を物質的側面でしか理解していないわけだから、夢の世界の教習所の存在すら知らないということかもしれない。

私の場合、夢と現実との境界に関するイメージについて、まずはプライアン・L・ワイス博士や飯田史彦氏の退行催眠からの得た考察に関する著作からすでに知識を得ていた。

その後、ヘミシンクに関連する著作を読むことで、ごく普通の人にもその境界を超えられる可能性についての具体的知識を得ることができた。ロバート・モンロー氏のみならずブルース・モーエン氏や坂本政道氏の著作には圧倒されるものがあると同時に、そのような体験は誰にでも可能なのだという確信を持つには十分であった。もちろん、登場する情景や人物、事件については、一人ひとり違って当たり前だが、それすら潜在意識というレベルで共有化されているということだろうと今は理解している。

そして、バシャールやプレアデス方面のチャネラーの方々の著作の内容が、すべて同じことを別の視点・別なレベルから説明しているに過ぎないということも理解しつつある。あえて、相互にキーワードを統一的に使おうとしないことにも、何かの意図があることを感じている。

【注: 一方で、いかにも陰湿でおどろどろしかったり、あまりに低級すぎて地球の発展に何の役にも立ちそうもない内容を、今さら「神様です」とか「宇宙人です」とか言って紹介するものはあまり近づかない方が無難だろう。特段、それが危険だとも思わないし、それに反応してしまう人を導くための特別な役割があるとは思うが、そうでない人が足を引っ張れられてわざわざ遠回りする必要もないと思うので。】

簡略化して表現すると、我々の人間の意識の及ばない領域の存在たちは、必要なタイミングで必要な情報を我々に下ろすために、常に準備し見守ってサポートしているということである。もっと言うと、我々人間は、もともとは巨大な宇宙のエネルギーの一部がこの物質界に投影されたもの(物質的な観点では、『分離』したもの)であり、投影装置のスイッチを切れば彼らと統合されていくということだ。この分離と統合を繰り返すことによって、宇宙は新しいバリエーションの自分を創造していくのだ。そして、我々の意識も宇宙の一部である。

だから、人間同士が衝突し、奪い合い、排斥し合うことも、惹かれ合い、相互に認めあうことも宇宙は禁じていない。あらゆるバージョンのシナリオが存在するのだ。どんな結末になろうとも、投影装置のスイッチを切った段階で、そのすべてが記録された記録媒体が宇宙図書館に保管されるだけなのだ。そこでは、時間を進めるのも戻すのもその速度を変えることも自由自在である。ただ、地球あるいはそれを含む太陽系全体とか、あるまとまりの中で目指す方向というものもあり、それは潜在意識を通じて共有されているので、自然にその方向のシナリオにフォーカスされていくことになる。

ここで、フォーカスされていないシナリオも存在しない訳ではないことは言っておくべきだろう。「人が月を見ていない時、月は存在していないというのは本当だろうか?」とアインシュタインは質問したという。ちょっと前に、夜空に輝く銀河・星々に関しても同じことなのではないかとのコメントを目にしたような気もする。シュレーディンガーの猫の話も似ている。要するに我々人間が確認しようとした瞬間に初めてそれは存在する、という可能性を人間は否定できていない。

パラレルワールドの話も同じだ。人間一人ひとりがその瞬間瞬間ごとに"世界"を描き上げている。紙芝居のようなものだ。その人間の数だけある無数の"世界"が、ひとつのスクリーン上に重ね合わされた結果がこの物質世界。一人の人間がどのシナリオの紙芝居をどんなタイミングで持ってくるのか、そこにはある程度の自由度が残されている。

でも、すべてが重なりあったからと言って、すべてがお互いに認識し合えるという訳ではない。あまりに周波数・振動数が違いすぎると、それはお互いに認識できなくなる。周波数・振動数が近い"世界"をあえて選べば、相互に影響し合うことができるようになる。つまり、あらゆるバージョンの"世界"は同時に潜在的には存在している。ただ、そこに意図がフォーカスされなければ、それは姿を消したように感じられるだけなのだ。これがパラレルワールドだ。

確認のしようもないことだが、それは投影装置のスイッチを切ってみればわかることだ。投影装置を操作できる世界に帰ってみればわかるんだから、焦る必要はない。また、どのレベルの視点を選ぶかによって、その答えは変わってくるということも理解すべきだろう。

これが現段階での、私の夢と現実との境界に関するイメージだ。
ようやくすべての『知識』がつながりを持ってきたという感じだ。
でも、"目覚めている自分"のままで夢の中に飛び込む『体験』をしたい、という強い欲求はいまだに満たされていない。
まだ順番にやるべきことがあるのだと思う一方、意図の方向をシフトさせることができれば、すべては動き出すはずだという予感もある。早く足がかりになるものを見つけたい。

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